特集:歴史回廊くまもと魅力発見の旅

ホーム の中の特集:歴史回廊くまもと魅力発見の旅 の中の天草キリシタン文化を訪ねて

歴史回廊くまもと 魅力発見の旅

  • 歴史回廊くまもと魅力発見の旅
  • 観光
  • 特産品

天草コース「天草キリシタン文化を訪ねて」

行程
  • ゆったりとした船の旅もおすすめです。
  • [カイドからのご案内:平田豊弘]

    今から460年程前、遠く海を越え日本に伝来したキリスト教は、繁栄、弾圧、潜伏、復活の歴史をたどりました。この天草ではルイス・アルメイダ神父による布教が開始され、瞬く間に島民の殆どがキリスト教の信者となりました。特に、宣教師を養成するコレジヨが設置され、金属活字印刷機によるローマ字本の印刷など、繁栄の時代を迎えたのです。しかし、豊臣秀吉の伴天連追放令や徳川家康の切支丹禁教令により弾圧がはじまり、寛永14年(1637)、迫害や苛政に対し天草四郎を総大将とした天草・島原の乱が勃発したのでした。乱後の天草は幕府が直接支配する天領となり、宗門改めなど厳しい宗教政策がとられ表面上はキリスト教の信者はいないこととなっていましたが、秘かに信仰を守り続ける人々もいました。文化2年(1805)、今富、﨑津、大江、高浜で52005人の潜伏キリシタンが発覚する事件が起こりましたが、心得違いとして穏便に処理されています。明治6年(1873)、切支丹禁教の高札が取り払われ、日本でもようやく禁教が解かれました。天草には長崎から宣教師が派遣され、復活の一歩が始まったのです。
    河浦町﨑津は、入り江の漁村に﨑津天主堂がそびえる集落です。護岸には漁船が係留され、カケとよばれる作業場では魚のみりん干などが作られています。町なみは家々が密集し、路地で出会う人は気軽に声を掛けてくれます。﨑津天主堂は、昭和9年に長崎の鉄川与助によって建築され、正面の尖塔部は鉄筋コンクリートで礼拝部は木造となっています。 「ここは江戸時代の村庄屋吉田家の跡地で、絵踏みが行われていた場所に祭壇が設けられています。」何気ない説明は、この地に刻まれた苦難の歴史であり、天主堂は時間の流れを優しく包み込み、人々の生活の中に息づいています。
    天草町大江の山腹には、大江天主堂が輝いています。大江天主堂は昭和8年に鉄川与助によって建築された鉄筋コンクリート造りです。中央の祭壇上部には、受胎告知の絵が掲げられています。この教会の建設に私財を投げ出したのがガルニエ神父で、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里等の五人の若き詩人も、この神父を訪ねて来ました。空の青と天主堂の白、静寂な礼拝堂にはステンドガラスからの光がこぼれ、誰もが心和む空間を醸し出しています。
    • 4昼食:白磯旅館
  • [白磯旅館からのコメント]

    現在は旅館となっている和洋折衷の立派な建物は、1904年(明治37年)にアフリカのマダガスカル島に渡り財を成した赤崎伝三郎が帰国後に建てた家。地元で獲れた新鮮な魚を味わうことができます。
  • [カイドからのご案内:丸山主幹]

    天正遣欧少年使節
     1582(天正10)年2月20日、有馬のセミナリヨで学んでいた当時13歳前後の4人の少年(伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアン)は、九州のキリシタン大名(大友宗麟・大村純忠・有馬晴信)の名代として、イエズス会巡察師ヴァリニャーノらとともにポルトガルの南蛮船に乗り、長崎の港からローマへ旅立ちました。使節の目的は、第一にイエズス会の日本での布教の成果をローマ教皇に認めてもらい、後の布教事業への援助を賜ること。第二に、日本人に欧州のキリスト教世界を見聞させ、その繁栄と教皇の偉大さを伝える語り部として育成し、帰国後の布教に役立てることでした。

    スペイン国王・ローマ教皇との謁見
     航海途中、ゴアでヴァリニャーノとのつらい別れを経験し、出港から2年半後の1584年8月11日、少年たちはポルトガルのリスボンに入港。その後少年たちはスペインへ進み、首都マドリードで、当時「世界の帝王」と言われていたフェリぺ2世に謁見。その後各地で熱烈な歓迎を受けることになります。1585年3月22日、少年たちはついに目的地のローマに到着。バチカン宮殿「帝王の間」で全キリスト教世界の代表者が集まる中、84歳の老教皇グレゴリオ13世は、涙を浮かべ少年たちの身体を引き寄せ抱擁。この異例の待遇は大変な評判となり、ヨーロッパ各地で少年施設を紹介する印刷物が発行されました。

    一遍していた日本・秀吉との謁見
     1586年4月、南蛮文化を語る貴重な書籍や美術品、楽器、印刷機等を積み込み、遣欧使節一行の船はリスボンを出港。ゴアでヴァリニャーノと再会し1590年7月28日に長崎に帰港。13歳前後で日本を発った少年たちは、21~22歳のたくましい青年に成長していました。しかし時の日本は豊臣秀吉の天下。大友宗麟・大村純忠は世を去り、秀吉は宣教師追放令を発令、キリシタンの弾圧が強まっていたのです。1591年3月3日、4人はヴァリニャーノと共にインド副王の使節として聚楽第で秀吉に謁見。秀吉の所望でクラヴォ、アルパ等の楽器を演奏したところ、秀吉はその演奏に聴き惚れ3度もアンコールしたのだとか。

    天草に栄えたキリシタン文化
    1591年7月、4人は天草の修練院でイエズス会員になり、後にコレジヨ(日本人の神父を養成する最上級の教育施設)で専門的な教育を受けます。遣欧使節は欧州からさまざまなものを持ち帰りましたが、中でも日本の文化に影響を与えたのがグーテンベルク印刷機です。金属活字印刷機が天草のコレジヨに移設されて以降、7年間で29種類のキリシタン本(天草本)が出版されました。また、志岐には美術セミナリヨが設置され、油絵の製作や指導、時計やオルガンの製作も行われていました。このように、当時の天草は「キリシタン文化が華開いた、日本で最も魅力溢れる島」だったと言えるかもしれません。

    天正遣欧使節それぞれの道
     1598年、天草のコレジヨと遣欧使節は長崎に移され、迫害と弾圧の中でそれぞれの人生を歩むことになります。伊東マンショは小倉、日向などで布教活動ののち長崎で病死。千々石ミゲルは苦悩と挫折からイエズス会を退会、原マルチノは長崎などで布教に努めた後にマカオへ追放されマカオで昇天。中浦ジュリアンは博多・京都を中心に潜伏しながら最後まで布教活動を行い、小倉で捕らえられ1633年長崎・西坂にて穴吊りの刑を受け殉教(2007年6月1日、中浦ジュリアンはローマ法王庁から列福が認められました)。
    帰国後、4人が歩いた道は苦難に満ちたものでした。しかし欧州の人々に日本の存在や文化を知らせるとともに、西洋文化を持ち帰り日本の文化の発展とキリスト教の布教に多大な業績を残したことはまぎれもない事実です。天正遣欧少年使節は、天草の地に大きな歴史・文化遺産を残してくれました。私たちはこれを誇りとし、後生に語り継ぎたいと思います。
    • 9本渡港(天草宝島ライン) → 三角港 → 熊本市
ガイド紹介
天草市教育委員会
世界遺産登録推進室
主幹 平田 豊弘

◆おすすめスポット

大江西平からの夕日・東シナ海を染める夕陽は、刻々と色を変えながら水平線に沈みます
妙見ケ浦・国指定名勝・天然記念物で、天草灘の美しい自然が楽しめます。





◆おすすめの一品

すぎ羊羹・琉球使節が伝えたというお菓子です。



コレジヨ館
丸山主幹

◆おすすめスポット

 天正遣欧少年使節と南蛮文化を紹介する資料館として、熊本県天草市河浦町に「天草コレジヨ館」があります。是非、お立ち寄りください。

天草の特産品

[車でのアクセス]

下記のアドレスにて多方面からのアクセスが表示されます。ご参考下さい。
天草観光情報たからじま旅ナビ

地図
※マップのサンプルです。

▲ このページのトップに戻る


CopyRight ©   Kumamoto Prefecture Tourist Federation. All Rights Reserved.